ゆっくりゆっくり

ゲイの教師が鬱病で休職し、復帰に向けて一歩一歩に全集中。教育/LGBTQ/鬱病/メンタルヘルス/心理学

学級担任を務め上げること

皆さんは、小中学校の頃の担任の先生にどんな思い出があるでしょうか。

 

好き。嫌い。面白い。真面目。アツい。厳しい。

 

もしかしたら、何らかの理由で途中で担任が変わるなんてこともあったでしょう。

 

今日はそんな話です。

 

休職して、復帰して、休職。

僕は、1ヶ月休職して復帰したものの、体調が思わしくなく再休職してしまいました。

 

1回目の休職を決めるにも時間がかかりました。必死にこらえました。

 

担任が子どもの前から姿を消してはいけない。

 

その思いでこらえました。復帰するときも、早く戻らないとという思いが強かったです。

 

1年間、学級担任を務め上げることは、とても大切だと思っています。もちろん自身の健康も大事ですが。

 

だから今、いっぱいいっぱい後悔と自責があります。子どもたちに本当に申し訳ないです。

 

今後の復帰にあたって

今日、上司と復帰にあたっての仕事について話をしました。

 

復帰のタイミングはまだはっきりしないですが、考えられるパターンは3つ。

1、四月復帰で学級担任外

2、年度途中(春~秋)復帰で学級担任

3、三学期復帰で2人体制で学級担任

 

自分の意思を通すなら、春から秋頃の復帰です。しかし、お役所的な事情から、臨時講師に変わって学級担任をしなければならないということです。

 

つまり、年度途中に僕がノコノコと復帰すれば、臨時講師と言えども、1年間、学級担任を務め上げることができないということです。それは納得できません。

 

臨時だろうと正規だろうと

子どもたちには知ったこっちゃありません。目の前にいる担任の先生は、臨時講師とか正規職員とか関係なく、担任の先生なのです。

 

それが大人の事情で変わってしまうのです。今まで担任だった臨時講師の先生は、じきに違う学校に異動させられます。

 

現状の体制では、年度途中の学級担任外の復帰は厳しいとのこと。

 

僕は嫌です。生活のため、お金のためでも、ただの大人の事情で担任が変わることは。子どもがかわいそうです。

 

かといって、4月に担任外で復帰するのは、今の病状では少し怖いです。

 

過去の苦い経験

僕は、以前勤めた学校で、年度途中から担任をしたことがあります。臨時講師時代、産休に入る先生の代わりとしてです。

 

前担任の女性の先生はとても明るく、子どもたちから人気がありました。僕とは真逆と言っていいほど、指導スタイルが違いました。

 

なかなか大変な学校ということもあり、子どもたちとはうまく関係性が築けませんでした。

 

前担任のスタイルを引き継げなかった僕の力不足でした。子どもたちもしんどかったと思います。

 

3月のお楽しみ会でなんでもバスケットをした時には、ある女の子が「先生のこと嫌いな人!」と言うと、半数以上の子どもたちが立ち上がり、席を移動し始めました。悪ふざけをしていた子もいたと思いますが、辛く苦い経験です。

 

その一年を除いては、それなりに楽しく学級経営ができていたのに。やっぱり一人の先生が作り上げる学級のカラーは大切です。引き継ぐのは、なかなかしんどいです。

 

だから、どうか健康的に働き、1年間、学級担任を務め上げてほしいのです。

 

復帰について少し疑問と迷いが出てきました。臨時講師やら正規職員とやら、お役所的な事情によって、子どもたちの安心できる学びが保障されないのですから。

 

偉い方々に意見して、少し駄々こねてみたいと思います。

 

 

 

 

減収という恐怖

僕は教師、よって公務員になるので、休職をしても一定期間は数割の給与が補償されます。

 

先月までは、「病休」という扱いで全額支給だった給与が、今月から「休職」となり減額。

 

働いていないのに、もらえるだけありがたいです。

 

コロナ禍では、減収どころか収入がゼロで、貯金を切り崩したり借金をしたりする方々も多くいるかと思います。

 

恵まれた立場でいることを承知ながら、素直に書きます。

 

収入が減るって、こんなにも怖いんだ。

 

預金通帳を見て、呆然としました。少しの間、思考が停止しました。

 

早く働かないと…って焦りを感じました。

 

健康は財産。働ける幸せを改めて感じました。

 

先日、心療内科で「これ以上いまの状態なら、薬増やしますね」と言われました。

 

早く治さないと…って焦りを感じました。

 

金も医者も容赦ありません。

 

この焦りが、良い方向に向かえばいいと思います。

 

ゆっくりゆっくり。

吉か凶か

大きな一歩を踏み出しました。

 

”上司に謝る”をしました。

 

電話だと、要らない感情が邪魔をしたり、余計なことを言ってしまったりするので、失礼を承知でLINEで。

 

その上司とは、そこそこ良い間柄でした。ゲイだということをカミングアウトしていました。人生で3人のうちの一人です。

 

僕のメンタルの不調が起きてからは、関係性がどんどん悪化していきました。

 

話せば話すほど、悲観的に受け取り、そして上司を責める。上司もカッとなり言い返す。感情と感情がぶつかり、どうにもならなかったです。

 

休職したその日から”謝りたい”という気持ちがずっとありました。でも、甘えなのかな、依存なのかなと思い、踏みとどまっていました。

 

3ヶ月経って、何度も何度も考え直しました。

 

もう関わらない方がいいかとか、もう忘れようとか、気にしないようにしようとか、そんな前の向き方も考えました。

 

でも、上司に対する申し訳ない気持ちは変わりませんでした。

 

だから”謝る”という決意をしました。

 

上司をたくさん否定し、責めてしまったことで、僕の不調が上司自身のせいだと負い目を感じているのではないかという心配もありました。

 

過去の出来事を切り捨てて、また前を向けるように。これは、自己満足ですが、甘えさせてもらいました。

 

今日は朝からずーっと悩み続け、昼にようやく送りました。3ヶ月ぶりに。

 

許してもらおうとか、分かってほしいとか、そんな気持ちはありません。

 

とにかく、ごめんなさいなんです。

 

少しでも伝わるといいです。

 

でも、3ヶ月間、もやもやと抱え続けた思いを伝えることで、僕はスッキリしました。

 

吉か凶か

 

返信はまだ来ません。来るかどうかも分かりません。

 

どういう結果になろうと、今日の一歩はとっても大きいです。

 

自分、ホンマよく頑張った。

子どもの前に立ってほしくないなぁ

休職前、最後に上司と話をしたときに言われた言葉です。

 

僕が「授業の準備をする気力すら沸かなくなってきました。」と言ったら、

「気力が無いのに、子どもの前に立ってほしくないなぁ。」と言われました。

 

皆さんはどう感じるでしょうか。

 

メンタルが追い込まれているのに、更に追い打ちをかけられたと感じる人。

 

仕事は仕事。言われて当然と感じる人。

 

心はズタズタ、酷い…と感じる人。

 

僕は、言われた瞬間はドキッとしましたが、スッと受け入れられてしまいました。当時は、何に対しても否定的で、何を言われても悲観的に受け止めることしかできなかったのに。

 

今思えば、自分の気持ちを肯定的に受け止めてくれたと感じたのでしょう。

 

僕の心の中は「自分なんて子どもの前に立つ資格が無い」というところまで陥っていたようです。

 

共感のようで…

別の場面では、

「今の僕には、自分らしさとか、自信とかなく、いなくなればいいって思うんです。」と言うと、別の上司が「そんなん俺も一緒やで。自信ないし、自分がいない方がうまくいくんちゃうかって思うで。」と言われました。

 

そのときは、「みんな一緒やねんから、お前も頑張れや!」と言われているようにしか感じませんでした。

 

メンタルが追い込まれている僕にとっては、笑顔で仕事をしている人と同じにされるのは辛かったです。苦しみのレベルがちゃうねんって思いました。こういうのを一般化というのでしょうか。

 

共感といっても様々で、相手の感情にどれだけ寄り添えるかが鍵なんだなと思いました。

 

シンパシーとエンパシー

シンパシーはよく使われる言葉で「同情」「共感」などの意味があります。相手と同じ感情で「大変だね」とか「その気持ち分かるよ」といった感じです。

 

エンパシーは自分と違う価値観や理念をもっている人が何を考えているのか「想像する力」だそうです。苦しんでいる人がいる場所まで心理的に下りて、相手の気持ちをリアルに考えること。

 

シンパシーが感情に作用することに対して、エンパシーは知的に考える作業です。

 

エンパシーのように、心の本音に寄り添って話を聞いてくれる人っていますよね。この人には相談したいなって人。ただこの力には、ある程度の能力とスキルがいるそうです。

 

もちろん「僕もあなたと一緒だよ」って言葉は、本当は嬉しいです。シンパシーのような、ごく一般的な一辺倒な言葉だって、僕に寄り添ってくれていることは確かですし。

 

でも、鬱病の人ってそうはいかないんですよね。

 

気を紛らわす言葉も相手にされていない感じだし、元気な人と一緒にされたくもないし、思考の中のすっごい難しい負のスパイラルに陥っているんです。

 

だから一般的でもなく一辺倒でもなく、エンパシーのように心の深いところをゴリッと押してくれる言葉が必要なんです。

 

心理学や鬱病の本には、心の深いところをゴリッと押してくれるワードにあふれています。それそれー!!って感じで。

 

自分の気持ちは自分にしか分からない

どれだけエンパシーの能力に長けていてもカウンセリングが上手でも、結局は「自分の気持ちは自分にしか分からない」です。

 

屁理屈でも拗ねているわけでもないです。

 

言い換えれば「相手の気持ちは本人にしか分からない。」です。

 

「最後は、自分の言葉を信じなさい。」ってことです。

 

だから、人に言われたことを気にすることもないし、シンパシーとかエンパシーとか、あんまり望む必要ないんですが。

 

それができないから鬱病なんでしょう。

 

子どもの前に立ってほしくないなぁ

 

僕、休んでいいんだ。逃げ出していいんだ。そう思えた一言です。

 

次、元気になったときは、もう少し自分の心に正直に向き合います。そして、誰かが苦しんでいるときは、今の僕のような気持ちを思い出して、心の深いところをゴリッと押してあげれたらなぁと思います。

 

 

 

『主観』という沼

僕はこの一年、自分の考えや生き方に悩みに悩み、ズルズルと精神的な病にハマリ、結果「鬱病」と診断されました。

 

鬱病の症状として「自責」があげられます。これがまた厄介で、自分を責め始めたらなかなか抜け出せない沼のようです。

 

理解のない人は「気の持ちよう」とか、「甘え」とかなんとか言う人もいるそうです。

 

鬱病は、そんな簡単なものではありません。自力では這い上がってこれない沼にのめり込んでいく病です。

 

少し冷静になった頃に

休職から3ヶ月が経ち、ようやく少し冷静さを取り戻しつつあるのかなと思っています。これまで映画や本といったものは、いろいろな感情が邪魔をして病状が悪化しそうだったので、時間がありながらも、あまり触れられずにいました。

 

そろそろ本を読んだり、自分の思考と向き合ったりして、自分の心の在り方を見つめ直してもいいのかなと思っています。

 

『主観』と『客観』を整えよ

とあるメンタル系YouTubeチャンネルで学びました。

 

『主観』と『客観』のズレに悩み続ける。

 

まさに今僕が陥ってるのはこれでした。

 

まずは『主観』

・だれも僕の声を聞いてくれない

・僕は文句ばかり言う厄介ものだ

・自分なんかいない方がマシ

・自分が力不足だ

 

そして『客観』

・仕事が早いね

・向上心があるね

・すごく分かりやすい説明だね

・この仕事に向いているね

・あなたのような考えができる人はなかなかいないよ

 

過去に言われたことのある言葉です。書き並べるだけで十分と言っていいほど贅沢な言葉をいただいていたんだなと思います。

 

しかし僕は、自身のこだわりと業務量に限界を感じ、仕事に行き詰まりました。

それからです。この厄介な鬱々とした『主観』の沼にハマり始めたのは。

 

『主観』という沼にハマり続ける理由探し

鬱々とした状態が続くと『主観』にハマり続けます。「自己執着」と言うこともあるようです。

 

そして次に『主観』を決定的なものとする理由探しを始めます。

 

・僕は、この組織のやり方が気に入らなかったんだ。

・○○さんがこう言ったから僕は調子が悪くなったんだ。

・××さんが思うように動いてくれなくて。

 

まわりの環境の全体ではなく、端々だけをつまみ出して責める。健常な心の人からしたら、嫌なところだけ指摘されて責められるんですから、そりゃうまくいくわけがない。

 

そして、まわりを責めても、結果として自分を責める。結局、自分の力不足なんだ、自分が嫌なことを言い散らかしているだけなんだ、と。僕は、まだこの渦中にいるようです。

 

仮でもいい。『客観』と唱え続けよう

人間、愛されていないことなどないはずです。できたことが何一つないこともないはずです。

 

少し冷静になった頃に、『主観』を一旦横に置いて、『客観』を受け止めてあげてください。

 

僕って愛されていたよな。

 

まずは仮でもいいと思います。少しずつ自分を認めてあげて『主観』と『客観』のズレを整えてあげたいと思います。

 

そう思っていたら、休職前、メンタルがボロボロだった頃、責めてしまった方々に謝りたくなってきました。これまた、大きな壁です。

 

 

 

 

今流行りのLGBTってやつね

僕は小学校の教員をしています。

 

中学校に進学する女の子がスカートではなく、ズボンをはきたいということについて。

 

「今流行りのLGBTってやつね。」

 

職員室である先生が言った一言です。

 

LGBTQは流行りではありません。トレンドを取り入れるような感覚ではありません。ずっとずっと前から自認していても、人には言えなかったセクシャリティが世間に知られるようになってきただけです。

 

言ってやりたかったです。でも言えませんでした。

 

僕は、これまでに3人しかカミングアウトをしたことがありません。でも、心の内ではカミングアウトをしたくてしたくてたまらないです。もっと知って欲しいのです。

 

教育に携わる人には尚更です。早ければ小学生から、自身のセクシャリティに迷いが出る子もいるでしょう。そんな子が少しでも救われたらなと思っています。

 

「思春期になると、異性のことが気になり始める」

 

これは、4年生の保健の教科書に載っている一文です。若干文面が違うかもしれませんが、「異性」に限定されていることに違和感を覚えました。

 

僕は我慢できずにこう言いました。

 

「ここには異性って書いているけど、異性だけなのかな?」

「ううん、男の人が男の人を好きになることもある。」

「そうだよね、異性に限らず同性のことが気になることもあるよね。」

 

すると、勉強が苦手であまり発表をしない女の子が、何回も大きく頷く姿が見られました。普段では見られない、とても印象的な光景でした。何かに気づいているのかもしれません。

 

LGBTQが認知されていなかった時代。その壁にぶち当たった人は、悩みに悩んだことでしょう。僕もその一人です。

 

思春期で自身のセクシャリティに迷った人が気軽に相談できて、温かく受け入れてもらえる社会になればいいなと思います。

 

僕自身、ゲイであることを公表する勇気がなく、ここでしか吐き出すことができませんが、いつか勇気を出して発信できるようになったらいいなと思っています。

 

 

人生の道は選ぶんじゃない拓くんだ

今までの人生、誰かが敷いた道を歩んできたでしょうか、自分で拓いた道を歩んできたでしょうか。

 

それは、どんな道でしょうか。

 

ぬかるんだ道、草が生い茂った道、コンクリートで舗装された道。

 

今はたくさんの道があります。親の影響、先生の影響、友達の影響、ネットの影響。いろいろな関わりや情報収集によって、選べる道がたくさんあります。

 

それもまた便利なようで不便ですね。

 

何万年も昔は道などなかったでしょう。あって獣道くらいでしょうか。

 

きっと生まれた瞬間はそんな感じだったんでしょう。

 

気付けば周りに道だらけ。若い頃、まだまだ好奇心旺盛で多感な時期。いっぱいいっぱい岐路に立ち、迷いに迷ったことでしょう。

 

どの道この道、自分が選んだ道。泥沼だろうと坂道だろうと、ここまで歩いてきたことは確かです。

 

もしかしたら誰かに敷かれた道なのかもしれません。

 

でも、その道を歩くと決めたのは自分です。

 

自分を責めているようですが、ここまで歩んできたことは確かです。本当によく頑張りました。

 

この先、どんな道があるでしょうか。

 

その道は、誰かが敷いた道でしょうか。自分で拓いた道でしょうか。

 

変化に富んだ時代。思いがけないことが平気で起こる時代。

 

自分で道を拓いてみたいと、ふと思いました。

 

それは、地道な作業です。草をむしり、土をならし、一歩一歩チマチマと整えていくんです。

 

そんなことをしているうちに一緒に草をむしってくれる人が現れるかもしれません。

 

重機を持ってきて、ガガガーっと整備されるかもしれません。

 

花を植えてくれるかもしれません。

 

道でウンコする、とんでもない人もいるかもしれません。

 

最後まで、一人かもしれません。

 

他人の期待に応えようとしていた自分、嫌われないようにしていた自分。それは、他者への”近道”だったのかもしれませんが、自分にとっては、いばらの道でした。

 

急がば回れ

 

どんなに遠回りをしても、自分で拓いた道は一番望ましい他者へのアプローチです。

 

イメージしてみると勇気が湧きます。

 

目の前に広がる大草原。

 

これから好きなように道を拓くことができるんだ。

 

そんな気持ちでこの先を歩んでみると楽しいのかもしれません。

 

人生の道は選ぶんじゃない拓くんだ

 

心に浮かんだ今日の一言。心にとめておきます。