ゆっくりゆっくり

ゲイの教師が鬱病で休職し、復帰に向けて一歩一歩に全集中。教育/LGBTQ/鬱病/メンタルヘルス/心理学

インナーチャイルドと遊んじゃおうぜ

インナーチャイルドは、「内なる子ども」と訳され、「傷ついた子どもの心」のことを指すと言われています。「子どもの頃の思考パターンや習慣」を指すこともあります。

 

大人になっても成熟した考えができない一面をアダルトチルドレンと言います。

 

僕のインナーチャイルド

アダルトチルドレンは、幼少期の親からの虐待や辛い経験が原因とされています。しかし、僕はそんな経験はありません。ただ、思い返せば僕の寂しかった思い出である”孤独”がインナーチャイルドとして残っているのかなと思っています。

 

僕は、とにかく甘えるのが下手くそでした。辛いときに辛いと言わない。助けて欲しいときに助けてと言わない。気付けば、どんなときも一人でなんとかしようと必死でした。

 

「しっかりしてるね」「真面目だね」「芯が強いね」…そんな言葉が、僕の”孤独”に拍車をかけていたように感じます。

 

いつもと違う涙

つい先日、仕事での辛い過去を思い出していました。自分のことを分かってもらえなかった。突き放された。受け止めてもらえなかった。今となっては、相手に期待しすぎですし、自分が未熟であったと思っています。

 

でも、辛かったものは辛かったです。当時は鬱々とした思考がグルグルと渦巻いて、どうにもならなかったのです。誰かにすがることしかできませんでした。

 

そんな過去から自分ばかり責めて責めて責めまくっていた数ヶ月。しかし、今回は「僕、辛かったよな。大変だったよな。」と、過去の自分を優しく癒しまくってみました。

 

する自然と涙がいっぱいあふれてきました。心がスーっと軽くなるような、ドロドロしたものが洗われるような思いでした。

 

インナーチャイルドと遊んじゃおうぜ

自身のアダルトチルドレンの問題と向き合うためには、インナーチャイルドを癒すことが大切と言われています。

 

辛かった過去、傷ついた過去をもう一度見直し、当時癒されなかった心をもう一度癒してあげます。専門家によるセラピーもあるようです。

 

先日の出来事は、インナーチャイルドの癒しに近いものがあったなと感じました。

 

自分の心を傷つける涙ではなく、自分の心を癒す涙。

 

僕は勝手に「インナーチャイルドと遊んじゃおうぜ」って言っています。僕の最近のハマりフレーズで、自身のメンタル記録ノートにも大きく書いています。

 

子ども心は健康の証

いい意味で子どもな一面を表に出せる人は、健康的なのかなと思います。変に偏ったオトナを演じている人は、インナーチャイルドの裏返しなような気がします。

 

インナーチャイルドと遊んじゃおうぜ」

 

自分の傷ついた心に素直に向き合って、いっぱいいっぱい遊んでやってください。自分のこと、もっと好きになれるはずです。

 

 

 

僕、うつ病LOVEですよ。

みなさんは、鬱病についてどのようなイメージをお持ちでしょうか。

 

「僕、うつ病LOVEですよ。」

 

これは、友達から言われた一言です。鬱病になる人は、すっごく頑張り屋さんだし、相手の気持ちもよく分かる優しい人が多いんです(^-^)とのこと。

 

鬱病と診断されて、人と会うのが嫌に感じたり、人との違いに苦しんだり…そんな気持ちを抱えていた僕の心がスッと軽くなる出来事でした。

 

うつ病の人って…

実は、僕の母は25年間もの間、鬱病と向き合っています。だから、僕からしたらわりと身近には感じていました。でも、それが友人や同僚だったらどこまで寄り添うことができるんだろうと思います。

 

もしかしたらこのブログのタイトルを読んだ人も「どんな悲観的な話が繰り広げられるのか」「うわぁぁぁ、めっちゃ暗そう」「読んでてしんどそう…」なんて思っているかもしれませんね。

 

うつ病という診断の有無

どんな病気でも、病名がつくということは、メリットとデメリットがあります。メリットは、自分の不調が病気であったという安心。つまり治せるってこと。デメリットは、自分が病人という枠に入ってしまう孤独感というか疎外感というか。

 

 

検査の数値のように白黒はっきりしないのが精神疾患の厄介なところです。だから、一概に鬱病と言っても、日常生活が困難な人、社会生活が困難な人など様々です。自分でも分からないグレーゾーンを漂っている人もたくさんいるはずです。

 

 

僕は3ヶ月前、鬱病と診断されましたが、限りなくグレーゾーンに近いと思っています。

 

うつ病と診断された僕がブログをするわけ

自己紹介にも書きましたが、まずは自分の気持ちを整理するためです。それに加えて、多くの人にメンタルヘルスについて知ってもらいたいですし、LGBTQ当事者の思いや教育の在り方などを共有できたら素敵だなと思っています。

 

だから、あまり鬱々としたことは書きません。読む人が鬱々とした気分になっても困りますから(笑)

 

「それなら鬱病ちゃうやろ!」

 

そうです。少なくともここでブログを書いているうちは症状は抑えられています。また、症状が思わしくなくても、吐き出すというより、少しでも読者の方に伝わる文面になるよう心掛けています。

 

 

少しでも「うつ病LOVE」が増えることを願って

自分で言うのも変ですが、鬱病なった今では「僕、ホンマ頑張ったなぁ!」って褒めてやってます。期待以上の仕事をしようとしていたこと、周りに気を使いまくっていたこと、僕がやってきたことは決して無駄じゃなかったって思えるようにトレーニング中です。

 

鬱病が身近でないと感じている方もいると思います。僕も母が鬱病でありながら、その一人だったのかもしれません。自分で自分を癒すこと、メンタルヘルスの大切さが今となって分かってきました。

 

こうなってしまったら治すしかないのです。ただ、再発率の高い病気であることも心に刻んでおかなければなりません。

 

鬱病の人は、本当によく頑張ってきたんだと思います。再発するのはまた頑張っちゃうからなんでしょう。周囲の目が怖くて不安でたまらないんでしょう。

 

だから、「うつ病LOVE」が社会に広まればいいなって思います。鬱病になっちゃったって言えて、頑張ったねって受け止めてもらえて、静かに一緒にいてくれる人が少しでも増えることを願っています。

 

 

 

僕の思う教育観と今の学校教育

僕は小学校の教員をしています。今は鬱病を患って休職中ですが、その原因の一つとして”日本の学校教育”とその現場に疑問を多く抱いてしまったこともあります

 

教育大国!?ニッポン!!

 

日本の教育を世界の順位で見てみると、課題となる読解力を除いてはまぁまぁ上位にいるようです。確かに義務教育という制度もあり、一人ひとりの子どもたちに教育を保証する国の力は持っています。

 

ただ、中高生の自己肯定感に関する調査では、日本は低い水準にあるそうです。テストの点数がどれだけ採れても、自分のことが好きになれなかったら幸せにはなれないですよね。

 

資本主義国ということもあり、自国の経済が世界で通用するよう注力することはよく分かります。日本の子どもたちにも、世界で通用する学力を身に付けて活躍してほしい!!そんな気持ちも分かります。

 

てんやわんや!?日本の学校教育現場

世界で一番多忙と言われている日本の教師。僕が勤めている小学校では、一つ一つの教科や優しいとはいえ、たくさんの教科を担当し、毎日の業務に追われています。

 

そこに降りかかる学習内容の改訂。「英語やりましょー!プログラミングやりましょー!ICT使ってくださーい!やること増えたから時数増やしますねー!」

 

正直、我々からしたら、やったことないことをいきなりやれと注文され、大した研修もなくやってる感じです。減らすことはせずに、増やされてばっかりの現場です。

 

これからを生きる子どもたちが背負っている十字架

お隣の某国は、世界の学力順位がどの分野においても1位です。いーっぱい勉強していますもんね。

 

ただ、日本もそれに近いものを求めているような気がします。学校が終わってから、お弁当を持って塾へ行く子どもたちがどれだけいることでしょう。そこそこの進学校へ行こうと思ったら塾で勉強しないと入れないと言っても過言ではない。

 

それは、「日本の学校教育では限界でーす!」と言っているようなもの。

 

学校は、最低限を保証するものなのか、そこだけで完結できるようにするものなのか。非常に苦しい子ども時代を強いられる世の中になってきたなぁと感じます。

 

みんなで一緒にがんばろう!!

THEニッポン!って感じです。古き良き文化とも言えます。ただこればかりでは、子どもの一人ひとりの個性がなかなか伸びないのも現状です。

 

では僕が個性を尊重できているかといえば、まだまだできてないと言えます。学校にはわりときっちとした規則がありますし、集団美を追求する姿勢は多く見られます。

 

仕方ないのです。みんなそういった教育を受けてきた人が大人になって先生をしているのですから。僕もその一人です。

 

これからの学校教育に求められること

まずは「10年先を見据える」ということでしょう。残念ながら現場にいると日々の業務で精一杯で世の中のことをじっくり見つめる時間がないのが現状です。企業で働いているビジネスマンの方が世の中の動向によっぽど敏感な気がします。学校の教師は世間知らずの塊です。

 

今の状況では、自分が子どもの頃に受けた教育の価値観を繰り返すだけなのかなと思います。

 

変化に富んだ現代。きっとこの10年よりもっと早く、これからの10年が進歩していくことでしょう。

 

僕が教えている子どもたちは、6歳~12歳。10年後、20年後、この子たちが世の中で生きていける教育をしなければという思いはいつも抱いています。

 

現代についていけない学校現場

教育の在り方、働き方、いろいろなことがついていけてないように感じます。もっと言えば、本気で変わろうとしていない。

 

所詮、公務員。能力は大して評価になりません。お給料は普通にもらえます。悪いことをしなければクビになることもありません。

 

全員ではありません。現場には、僕にとって雲の上の存在のような、本当に努力されている方もたくさんいます。

 

マジョリティに流されない現場に

大きく言えば、これが僕の願いです。自分自身がゲイだということもあり、人との違いに悩む子どもには敏感です。

 

僕も知らず知らずのうちに、自分の常識、世間の常識に当てはめがちです。ただ、それに苦しむ人はたくさんいます。

 

資本主義国ニッポン。国の発展のため、世界経済という大きな波に乗るため、数十年後の日本を担う子どもたちを育てる教育にも一生懸命です。

 

そんなことも承知ですが、僕は一人ひとりの精神的な幸福度をもっともっと上げていきたいなと思っています。

 

多様性に富んだ学校教育。ステキじゃぁないですか。

 

 

 

 

 

 

 

 

自分で自分を許せる日まで

鬱病になってから3ヶ月。少しずつ落ち着きのある生活を取り戻しつつも、数日の周期で不安の波が押し寄せてきます。

 

行き場のない気持ちを自分にぶつける

僕は休職する前、自分を追い込んで、やがて同僚や管理職に意見することが続いていました。

 

今となっては過去のことですが、組織を否定してきた自分が許せません。その中で同僚に言われたことに腹を立てていたことも、「どうせ僕が悪いんだろ」「僕がもっとしっかりしていれば」なんて気持ちになります。

 

気付けば過去をさかのぼり、今まで自分がしてきたことが間違っていたのでは、結局今の自分に何も残っていないなどと責めてしまうようにもなります。人生全否定ですね。

 

捨てた自分を取り戻そう

ここ数年、仕事でも評価されることが増え、自信がついてきていたところです。「僕ならできる!」「よい手本に!」「もっと認められるように頑張ろう!」そんな気持ちになっていました。

 

そこで僕が捨てていたもの。それは「ダメな自分」「だらしない自分」「失敗する自分」。それらを捨てることで自分自身を立派な人間だと思い込み、確立してきていたようです。

 

人間誰しも「ダメなところ」「だらしないところ」「失敗すること」があるでしょう。ホントはそんな自分も「いいよ(^-^)」って受け止めてあげなければいけなかったんだと思います。しかし僕は、そんな自分を捨てて排除していました。

 

いつからか分かりません。通知表の親のコメント欄にはいつも「人に迷惑をかけないように」と書かれていたことが鮮明に残っていて、あの頃から人に迷惑をかけないように一生懸命だったことを思い出します。

 

「真面目だね」「責任感があるね」「芯が強いね」「しっかりしているね」なんて言葉をたくさん掛けてもらってきました。それが僕の強みだと思っていました。

 

しかし、それが自分を傷つけてしまっていたことだったとは気付きませんでした。人に嫌われないように、認められるように、そんな思いばかりで自己を確立していたんだなと。こうして今は自分を見失ってしまいました。

 

自分で自分を許せる日まで

過去の失敗。自分の考え方。人との接し方。今となってはいっぱいいっぱい後悔が残ります。頑固な性格がこの沼をどんどん深くしています。

 

これらを受け止め、自分で自分を許せる日まで、僕は社会復帰できないんだなと思います。

 

 

 

 

ゲイの僕から見える世界

自分がゲイだと自覚したのは20歳。あくまでも“自覚”なので、それ以前からゲイだったのでしょう。

 

彼女にフラれてから、男性と関係をもったら「これだ…。」と思いました。何か違う自分に決着がついた瞬間でした。

でも、受け入れるには時間がかかりました。当時の僕が感じていたゲイ、すなわち同性愛者というのは異質な存在で、まさか自分がその当事者であるとは思ってもいませんでした。

 

では、今は受け入れられているのか。

 

答えは、NOです。それは、僕の性格であり気質であり思考であるところに原因もあると思います。「気にすることないよ」「人それぞれだよ」「おかしなことじゃないよ」と、そんな言葉を投げかけられますし、頭ではそう思うようにしています。しかし、心晴れやかに生きていくことができない壁があります。

 

世の中の“当たり前”とは
世の中の多くの人は、将来結婚して子どもを育てる…というようなことが当たり前に扱われることがあります。当然でしょう、子孫を残すこと、自分の家系を後世に残すことはとっても大切なことです。でも僕には無縁です。男同士では、子孫を残すことはできません。

 

僕は子どもを育てたいと思っています。愛する人と家族になり、子どもを育てる。素敵だなと思います。

しかし、僕には叶いません。だから、もどかしいのです。

 

これは、同性愛者に限らずの悩みでしょう。異性愛者でも結婚できない人。子どもを授かれない人。だからここでは「ゲイってかわいそうでしょ!!」なんて言いません。

 

ゲイに限らず、この悩みで生きている人はそれなりにいるはずなのに、家族や同僚との会話では「彼女は?結婚は?子どもは?」って話が“当たり前”のようにされますよね。

 

まるで二重生活
「ゲイとして生きる自分」と「ゲイを隠して生きる自分」の二重生活をしているんだなと、ふと思いました。

もっとサラッとカミングアウトできたら…「僕はゲイでパートナーもいるけど、その結婚とか子どもとかって、絶対に求められるもんなん?」なんて、言ってやりたい気持ちにもなります。

 

せめて家族にでもカミングアウトできたら、パートナーとお母さんと“一緒に”お出かけできるんだな。

同僚に彼女を紹介するように、パートナーと同僚と“一緒に”食事ができるんだな。

 

そんな世の中の“当たり前”のような光景を夢見ることが多々あります。

 

 

カミングアウトの価値観は人それぞれ
同性愛者ではないけれど、全く抵抗なく受け入れられる方も増えてきたなと感じられる世の中になってきました。でも、根強く残る差別意識のようなものは残っているでしょう。そんなものが邪魔をして、なかなかオープンにはできない難しさがあります。

 

しかし、カミングアウトをして相手にどう思われるかというのは本来二の次でいいように感じます。カミングアウトの目的は「自分らしくいたい」というところにあると思うようになりました。

 

その理由として、当事者自身がゲイというセクシャリティをどのように受け止めているかに違いがあるからです。

 

ゲイというセクシャリティをアクセサリーのように身に纏う人もいれば、顔面をマスクで覆っているように感じている人もいるのではないかと思うからです。

アクセサリーくらいなら気にならないですよね。でも、ゲイというセクシャリティを隠すことで顔面全体をマスクで覆われているように感じていたら生きづらいと思いますよね。

 

ゲイの仲間内の会話でカミングアウトの賛否を議論することがあります。しかし、そこに正解はなく、人それぞれでいいのです‼︎

 

僕と僕のパートナー
僕が今までカミングアウトをした人は3人だけです。できることならどんどんカミングアウトをして、顔面のマスクを剥がして生きていけたらいいのになと思っています。

 

しかし、僕のパートナーはカミングアウトはしたくないと言っていますし、同性婚にも興味がありません。理由は「関係性が悪くなった。」「自己満足でしかない。」なんてことを言っています。

 

自分らしく生きたい
始めに戻りますが、31歳になってもゲイである自分を上手に受け止めきれず、社会の中でどのように振る舞っていけばよいのか悩み続けています。ゲイである自分を受け止め、胸を張って生きていけたらいいなと思っています。

 

もっともっとマイノリティに日の目が当たる世の中に。そんな思いもあり、僕も前向きに発信していきたいなと考えています。

僕はどうして鬱になったのか

分かりません。ただ、いろいろ調べていくうちに鬱になりやすい人の性格や気質がバッチリ当てはまりました。

 

『完璧主義』

僕は何でもきちんとしなければ気がすまないところがあります。仕事は早い方ですが、とにかくトコトン!トコトン!やり込まないと気がすまない。

 

『他人の評価を気にしすぎる』

完璧主義者が他人の評価を気にしすぎるとどうなるのか。

完璧でないと自分の存在価値がない という思考に陥ります。

 

『〇〇べき思考』

他人の評価を気にし過ぎるあまり、「〇〇べきだ」「〇〇でなければならない」という風に考えることが多くなります。僕の31歳。仕事も慣れてきて、若手の多い職場では自分が組織を引っ張っていかなければという立場になっていました。

 

 

そして空回りする日々に突入…

とにかく自分が手本とならなければという思いが空回りし、自分よがりの思いをぶつける日々が続きました。後輩教員には辛辣な言葉を投げかけ、管理職にも組織の在り方を意見していました。

そりゃそんだけ言えば自分にも鞭を打つわけです。「おい、もっとできるだろ、頑張れや」と。徐々に色々なことにしんどさを覚えて、自分を貫くことに限界を感じ始めたとき過呼吸になりました。

それからは自身で気持ちをセーブしようとするものの「あれ、おかしいな、もっとできる、そんなはずはない!」と焦る日々…ものの3週間で休職に入りました。

 

診断名は適応障害

ある特定の環境に適応できなくる症状で、原因となるストレスから離れれば3ヶ月〜半年で良くなるそう。まずは仕事から一旦離れて心を休ませることに決めました。

 

1ヶ月で現場へ復帰しかし再休職

1ヶ月後、少し頑張ろうと思えたので復帰することに。しかし1ヶ月しかもちませんでした。学級の子ども達の前から姿を消してはいけないという焦りだったんでしょう。焦る気持ちが結果として悪い方向に向かってしまいました。

 

完全に心が折れた結果…鬱病の診断

真面目すぎる性格。責任を感じてしまう性格。そんなものが焦りとなり、ついにここまできてしまいました。これが、僕の鬱病診断までの経緯です。

 

自分…がんばったなー!!!!!!って言ってやります。

自己紹介

みなさん、はじめまして。Huskyです。

ここでは、ブログを始めようと思ったきっかけを書きたいと思います。

 

僕は、去年の夏頃から体調を崩し、2ヶ月ほど前から休職しています。なぜ体調を崩して休職になったのか原因はいくつかあります。ただ、原因のひとつひとつがどのように影響して今の病状になったのかは自分でも分かりません。

 

病名は鬱病。でも、世の中の鬱病の方のように、お風呂に入れなかったり、食事が喉を通らなかったりといった症状ほど重くなく、どちらかといえば適応障害に近いものだと思っています。

 

毎日、散歩をしたり、ゲームをしたり、ゆっくりお風呂に浸かったり、お菓子を作ったり・・・自由気ままに過ごすことで心の平穏は少しずつ取り戻しつつあります。しかし、病状には波があり、ズーンと落ち込むこと、前向きになれても自分という人間が何者なのか分からないことに日々向き合っています。

 

そこで、このブログで自分の思いを一つずつ言葉にすることで何かが見えるのではないかと思い、始めることにしました。このブログでは、教育のこと、LGBTQのこと、メンタルヘルスのことなど、僕の身近にあるテーマに即して綴っていきたいと思っています。

 

自分と同じような境遇の方、僕のテーマに関心がある方とつながって、交流できたらと思っています。

よろしくお願いします。