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ゲイの教師が鬱病で休職し、復帰に向けて一歩一歩に全集中。教育/LGBTQ/鬱病/メンタルヘルス/心理学

ゲイの僕から見える世界

自分がゲイだと自覚したのは20歳。あくまでも“自覚”なので、それ以前からゲイだったのでしょう。

 

彼女にフラれてから、男性と関係をもったら「これだ…。」と思いました。何か違う自分に決着がついた瞬間でした。

でも、受け入れるには時間がかかりました。当時の僕が感じていたゲイ、すなわち同性愛者というのは異質な存在で、まさか自分がその当事者であるとは思ってもいませんでした。

 

では、今は受け入れられているのか。

 

答えは、NOです。それは、僕の性格であり気質であり思考であるところに原因もあると思います。「気にすることないよ」「人それぞれだよ」「おかしなことじゃないよ」と、そんな言葉を投げかけられますし、頭ではそう思うようにしています。しかし、心晴れやかに生きていくことができない壁があります。

 

世の中の“当たり前”とは
世の中の多くの人は、将来結婚して子どもを育てる…というようなことが当たり前に扱われることがあります。当然でしょう、子孫を残すこと、自分の家系を後世に残すことはとっても大切なことです。でも僕には無縁です。男同士では、子孫を残すことはできません。

 

僕は子どもを育てたいと思っています。愛する人と家族になり、子どもを育てる。素敵だなと思います。

しかし、僕には叶いません。だから、もどかしいのです。

 

これは、同性愛者に限らずの悩みでしょう。異性愛者でも結婚できない人。子どもを授かれない人。だからここでは「ゲイってかわいそうでしょ!!」なんて言いません。

 

ゲイに限らず、この悩みで生きている人はそれなりにいるはずなのに、家族や同僚との会話では「彼女は?結婚は?子どもは?」って話が“当たり前”のようにされますよね。

 

まるで二重生活
「ゲイとして生きる自分」と「ゲイを隠して生きる自分」の二重生活をしているんだなと、ふと思いました。

もっとサラッとカミングアウトできたら…「僕はゲイでパートナーもいるけど、その結婚とか子どもとかって、絶対に求められるもんなん?」なんて、言ってやりたい気持ちにもなります。

 

せめて家族にでもカミングアウトできたら、パートナーとお母さんと“一緒に”お出かけできるんだな。

同僚に彼女を紹介するように、パートナーと同僚と“一緒に”食事ができるんだな。

 

そんな世の中の“当たり前”のような光景を夢見ることが多々あります。

 

 

カミングアウトの価値観は人それぞれ
同性愛者ではないけれど、全く抵抗なく受け入れられる方も増えてきたなと感じられる世の中になってきました。でも、根強く残る差別意識のようなものは残っているでしょう。そんなものが邪魔をして、なかなかオープンにはできない難しさがあります。

 

しかし、カミングアウトをして相手にどう思われるかというのは本来二の次でいいように感じます。カミングアウトの目的は「自分らしくいたい」というところにあると思うようになりました。

 

その理由として、当事者自身がゲイというセクシャリティをどのように受け止めているかに違いがあるからです。

 

ゲイというセクシャリティをアクセサリーのように身に纏う人もいれば、顔面をマスクで覆っているように感じている人もいるのではないかと思うからです。

アクセサリーくらいなら気にならないですよね。でも、ゲイというセクシャリティを隠すことで顔面全体をマスクで覆われているように感じていたら生きづらいと思いますよね。

 

ゲイの仲間内の会話でカミングアウトの賛否を議論することがあります。しかし、そこに正解はなく、人それぞれでいいのです‼︎

 

僕と僕のパートナー
僕が今までカミングアウトをした人は3人だけです。できることならどんどんカミングアウトをして、顔面のマスクを剥がして生きていけたらいいのになと思っています。

 

しかし、僕のパートナーはカミングアウトはしたくないと言っていますし、同性婚にも興味がありません。理由は「関係性が悪くなった。」「自己満足でしかない。」なんてことを言っています。

 

自分らしく生きたい
始めに戻りますが、31歳になってもゲイである自分を上手に受け止めきれず、社会の中でどのように振る舞っていけばよいのか悩み続けています。ゲイである自分を受け止め、胸を張って生きていけたらいいなと思っています。

 

もっともっとマイノリティに日の目が当たる世の中に。そんな思いもあり、僕も前向きに発信していきたいなと考えています。