子どもの前に立ってほしくないなぁ
休職前、最後に上司と話をしたときに言われた言葉です。
僕が「授業の準備をする気力すら沸かなくなってきました。」と言ったら、
「気力が無いのに、子どもの前に立ってほしくないなぁ。」と言われました。
皆さんはどう感じるでしょうか。
メンタルが追い込まれているのに、更に追い打ちをかけられたと感じる人。
仕事は仕事。言われて当然と感じる人。
心はズタズタ、酷い…と感じる人。
僕は、言われた瞬間はドキッとしましたが、スッと受け入れられてしまいました。当時は、何に対しても否定的で、何を言われても悲観的に受け止めることしかできなかったのに。
今思えば、自分の気持ちを肯定的に受け止めてくれたと感じたのでしょう。
僕の心の中は「自分なんて子どもの前に立つ資格が無い」というところまで陥っていたようです。
共感のようで…
別の場面では、
「今の僕には、自分らしさとか、自信とかなく、いなくなればいいって思うんです。」と言うと、別の上司が「そんなん俺も一緒やで。自信ないし、自分がいない方がうまくいくんちゃうかって思うで。」と言われました。
そのときは、「みんな一緒やねんから、お前も頑張れや!」と言われているようにしか感じませんでした。
メンタルが追い込まれている僕にとっては、笑顔で仕事をしている人と同じにされるのは辛かったです。苦しみのレベルがちゃうねんって思いました。こういうのを一般化というのでしょうか。
共感といっても様々で、相手の感情にどれだけ寄り添えるかが鍵なんだなと思いました。
シンパシーとエンパシー
シンパシーはよく使われる言葉で「同情」「共感」などの意味があります。相手と同じ感情で「大変だね」とか「その気持ち分かるよ」といった感じです。
エンパシーは自分と違う価値観や理念をもっている人が何を考えているのか「想像する力」だそうです。苦しんでいる人がいる場所まで心理的に下りて、相手の気持ちをリアルに考えること。
シンパシーが感情に作用することに対して、エンパシーは知的に考える作業です。
エンパシーのように、心の本音に寄り添って話を聞いてくれる人っていますよね。この人には相談したいなって人。ただこの力には、ある程度の能力とスキルがいるそうです。
もちろん「僕もあなたと一緒だよ」って言葉は、本当は嬉しいです。シンパシーのような、ごく一般的な一辺倒な言葉だって、僕に寄り添ってくれていることは確かですし。
でも、鬱病の人ってそうはいかないんですよね。
気を紛らわす言葉も相手にされていない感じだし、元気な人と一緒にされたくもないし、思考の中のすっごい難しい負のスパイラルに陥っているんです。
だから一般的でもなく一辺倒でもなく、エンパシーのように心の深いところをゴリッと押してくれる言葉が必要なんです。
心理学や鬱病の本には、心の深いところをゴリッと押してくれるワードにあふれています。それそれー!!って感じで。
自分の気持ちは自分にしか分からない
どれだけエンパシーの能力に長けていてもカウンセリングが上手でも、結局は「自分の気持ちは自分にしか分からない」です。
屁理屈でも拗ねているわけでもないです。
言い換えれば「相手の気持ちは本人にしか分からない。」です。
「最後は、自分の言葉を信じなさい。」ってことです。
だから、人に言われたことを気にすることもないし、シンパシーとかエンパシーとか、あんまり望む必要ないんですが。
それができないから鬱病なんでしょう。
子どもの前に立ってほしくないなぁ
僕、休んでいいんだ。逃げ出していいんだ。そう思えた一言です。
次、元気になったときは、もう少し自分の心に正直に向き合います。そして、誰かが苦しんでいるときは、今の僕のような気持ちを思い出して、心の深いところをゴリッと押してあげれたらなぁと思います。