ゆっくりゆっくり

ゲイの教師が鬱病で休職し、復帰に向けて一歩一歩に全集中。教育/LGBTQ/鬱病/メンタルヘルス/心理学

人が離れていく病気

年度末になりました。

 

学校でも人事異動があり、大変お世話になった管理職の方も異動になりました。

 

夏過ぎからうつ状態が酷く、管理職にいっぱいっぱい失言や否定の言葉をぶつけていました。

 

その都度、

「気にしすぎや」

「俺がそう思ったらそうや」

「お前直せってことか」

と受け止めてもらえず突き返されました。

 

しまいには、「俺もしんどいねん、分かってくれ」と、こちらのしんどい気持ちを突き返しておきながら、自身のしんどさを分かってもらおうと主張する始末。

 

結果、うつ病になりました。

 

めっちゃ苦しかったです。でも、自分の失礼な言動もあり、一概に相手を責めることできない自責との葛藤でした。

 

休職中、数ヶ月連絡をしませんでしたが、年度末になり、せめて最後だけでもきちんとお礼を言ってお別れできたらと思い連絡をしました。

 

すると、「朝からラインを送ってきて、恐怖を感じる。俺は自分のことを守ることを考えます。」と返信がきました。

 

終わった…と思いました。

 

僕のうつ状態を真っ向から否定し突き放した管理職。最後も僕の執着の被害者ヅラをして終わりました。

 

前年度まで、バリバリ働いていた僕。

 

うつ状態が普段の僕ではないことぐらい分かっているはずなのに。

 

うつ病の「分かってくれ」という執着は、健全な人からしたら「恐怖」に感じるんだなと思いました。

 

うつ状態うつ病に理解がない管理職。

 

ものすごくショックでしたが、残念な気持ちと怒りが残りました。

 

あの管理職が異動し、また同じようにメンタルを病んだ人が辛い思いをすることが我慢なりません。

 

僕と同じ思いをする人が出てきて欲しくありません。

 

僕がうつ状態からうつ病と診断されるまでの管理職の対応について、教育委員会に直接訴えをかけようかなと考えています。

 

うつ病というのは、人が離れていく病気だなと改めて感じました。

学級担任を務め上げること

皆さんは、小中学校の頃の担任の先生にどんな思い出があるでしょうか。

 

好き。嫌い。面白い。真面目。アツい。厳しい。

 

もしかしたら、何らかの理由で途中で担任が変わるなんてこともあったでしょう。

 

今日はそんな話です。

 

休職して、復帰して、休職。

僕は、1ヶ月休職して復帰したものの、体調が思わしくなく再休職してしまいました。

 

1回目の休職を決めるにも時間がかかりました。必死にこらえました。

 

担任が子どもの前から姿を消してはいけない。

 

その思いでこらえました。復帰するときも、早く戻らないとという思いが強かったです。

 

1年間、学級担任を務め上げることは、とても大切だと思っています。もちろん自身の健康も大事ですが。

 

だから今、いっぱいいっぱい後悔と自責があります。子どもたちに本当に申し訳ないです。

 

今後の復帰にあたって

今日、上司と復帰にあたっての仕事について話をしました。

 

復帰のタイミングはまだはっきりしないですが、考えられるパターンは3つ。

1、四月復帰で学級担任外

2、年度途中(春~秋)復帰で学級担任

3、三学期復帰で2人体制で学級担任

 

自分の意思を通すなら、春から秋頃の復帰です。しかし、お役所的な事情から、臨時講師に変わって学級担任をしなければならないということです。

 

つまり、年度途中に僕がノコノコと復帰すれば、臨時講師と言えども、1年間、学級担任を務め上げることができないということです。それは納得できません。

 

臨時だろうと正規だろうと

子どもたちには知ったこっちゃありません。目の前にいる担任の先生は、臨時講師とか正規職員とか関係なく、担任の先生なのです。

 

それが大人の事情で変わってしまうのです。今まで担任だった臨時講師の先生は、じきに違う学校に異動させられます。

 

現状の体制では、年度途中の学級担任外の復帰は厳しいとのこと。

 

僕は嫌です。生活のため、お金のためでも、ただの大人の事情で担任が変わることは。子どもがかわいそうです。

 

かといって、4月に担任外で復帰するのは、今の病状では少し怖いです。

 

過去の苦い経験

僕は、以前勤めた学校で、年度途中から担任をしたことがあります。臨時講師時代、産休に入る先生の代わりとしてです。

 

前担任の女性の先生はとても明るく、子どもたちから人気がありました。僕とは真逆と言っていいほど、指導スタイルが違いました。

 

なかなか大変な学校ということもあり、子どもたちとはうまく関係性が築けませんでした。

 

前担任のスタイルを引き継げなかった僕の力不足でした。子どもたちもしんどかったと思います。

 

3月のお楽しみ会でなんでもバスケットをした時には、ある女の子が「先生のこと嫌いな人!」と言うと、半数以上の子どもたちが立ち上がり、席を移動し始めました。悪ふざけをしていた子もいたと思いますが、辛く苦い経験です。

 

その一年を除いては、それなりに楽しく学級経営ができていたのに。やっぱり一人の先生が作り上げる学級のカラーは大切です。引き継ぐのは、なかなかしんどいです。

 

だから、どうか健康的に働き、1年間、学級担任を務め上げてほしいのです。

 

復帰について少し疑問と迷いが出てきました。臨時講師やら正規職員とやら、お役所的な事情によって、子どもたちの安心できる学びが保障されないのですから。

 

偉い方々に意見して、少し駄々こねてみたいと思います。

 

 

 

 

今流行りのLGBTってやつね

僕は小学校の教員をしています。

 

中学校に進学する女の子がスカートではなく、ズボンをはきたいということについて。

 

「今流行りのLGBTってやつね。」

 

職員室である先生が言った一言です。

 

LGBTQは流行りではありません。トレンドを取り入れるような感覚ではありません。ずっとずっと前から自認していても、人には言えなかったセクシャリティが世間に知られるようになってきただけです。

 

言ってやりたかったです。でも言えませんでした。

 

僕は、これまでに3人しかカミングアウトをしたことがありません。でも、心の内ではカミングアウトをしたくてしたくてたまらないです。もっと知って欲しいのです。

 

教育に携わる人には尚更です。早ければ小学生から、自身のセクシャリティに迷いが出る子もいるでしょう。そんな子が少しでも救われたらなと思っています。

 

「思春期になると、異性のことが気になり始める」

 

これは、4年生の保健の教科書に載っている一文です。若干文面が違うかもしれませんが、「異性」に限定されていることに違和感を覚えました。

 

僕は我慢できずにこう言いました。

 

「ここには異性って書いているけど、異性だけなのかな?」

「ううん、男の人が男の人を好きになることもある。」

「そうだよね、異性に限らず同性のことが気になることもあるよね。」

 

すると、勉強が苦手であまり発表をしない女の子が、何回も大きく頷く姿が見られました。普段では見られない、とても印象的な光景でした。何かに気づいているのかもしれません。

 

LGBTQが認知されていなかった時代。その壁にぶち当たった人は、悩みに悩んだことでしょう。僕もその一人です。

 

思春期で自身のセクシャリティに迷った人が気軽に相談できて、温かく受け入れてもらえる社会になればいいなと思います。

 

僕自身、ゲイであることを公表する勇気がなく、ここでしか吐き出すことができませんが、いつか勇気を出して発信できるようになったらいいなと思っています。

 

 

僕の思う教育観と今の学校教育

僕は小学校の教員をしています。今は鬱病を患って休職中ですが、その原因の一つとして”日本の学校教育”とその現場に疑問を多く抱いてしまったこともあります

 

教育大国!?ニッポン!!

 

日本の教育を世界の順位で見てみると、課題となる読解力を除いてはまぁまぁ上位にいるようです。確かに義務教育という制度もあり、一人ひとりの子どもたちに教育を保証する国の力は持っています。

 

ただ、中高生の自己肯定感に関する調査では、日本は低い水準にあるそうです。テストの点数がどれだけ採れても、自分のことが好きになれなかったら幸せにはなれないですよね。

 

資本主義国ということもあり、自国の経済が世界で通用するよう注力することはよく分かります。日本の子どもたちにも、世界で通用する学力を身に付けて活躍してほしい!!そんな気持ちも分かります。

 

てんやわんや!?日本の学校教育現場

世界で一番多忙と言われている日本の教師。僕が勤めている小学校では、一つ一つの教科や優しいとはいえ、たくさんの教科を担当し、毎日の業務に追われています。

 

そこに降りかかる学習内容の改訂。「英語やりましょー!プログラミングやりましょー!ICT使ってくださーい!やること増えたから時数増やしますねー!」

 

正直、我々からしたら、やったことないことをいきなりやれと注文され、大した研修もなくやってる感じです。減らすことはせずに、増やされてばっかりの現場です。

 

これからを生きる子どもたちが背負っている十字架

お隣の某国は、世界の学力順位がどの分野においても1位です。いーっぱい勉強していますもんね。

 

ただ、日本もそれに近いものを求めているような気がします。学校が終わってから、お弁当を持って塾へ行く子どもたちがどれだけいることでしょう。そこそこの進学校へ行こうと思ったら塾で勉強しないと入れないと言っても過言ではない。

 

それは、「日本の学校教育では限界でーす!」と言っているようなもの。

 

学校は、最低限を保証するものなのか、そこだけで完結できるようにするものなのか。非常に苦しい子ども時代を強いられる世の中になってきたなぁと感じます。

 

みんなで一緒にがんばろう!!

THEニッポン!って感じです。古き良き文化とも言えます。ただこればかりでは、子どもの一人ひとりの個性がなかなか伸びないのも現状です。

 

では僕が個性を尊重できているかといえば、まだまだできてないと言えます。学校にはわりときっちとした規則がありますし、集団美を追求する姿勢は多く見られます。

 

仕方ないのです。みんなそういった教育を受けてきた人が大人になって先生をしているのですから。僕もその一人です。

 

これからの学校教育に求められること

まずは「10年先を見据える」ということでしょう。残念ながら現場にいると日々の業務で精一杯で世の中のことをじっくり見つめる時間がないのが現状です。企業で働いているビジネスマンの方が世の中の動向によっぽど敏感な気がします。学校の教師は世間知らずの塊です。

 

今の状況では、自分が子どもの頃に受けた教育の価値観を繰り返すだけなのかなと思います。

 

変化に富んだ現代。きっとこの10年よりもっと早く、これからの10年が進歩していくことでしょう。

 

僕が教えている子どもたちは、6歳~12歳。10年後、20年後、この子たちが世の中で生きていける教育をしなければという思いはいつも抱いています。

 

現代についていけない学校現場

教育の在り方、働き方、いろいろなことがついていけてないように感じます。もっと言えば、本気で変わろうとしていない。

 

所詮、公務員。能力は大して評価になりません。お給料は普通にもらえます。悪いことをしなければクビになることもありません。

 

全員ではありません。現場には、僕にとって雲の上の存在のような、本当に努力されている方もたくさんいます。

 

マジョリティに流されない現場に

大きく言えば、これが僕の願いです。自分自身がゲイだということもあり、人との違いに悩む子どもには敏感です。

 

僕も知らず知らずのうちに、自分の常識、世間の常識に当てはめがちです。ただ、それに苦しむ人はたくさんいます。

 

資本主義国ニッポン。国の発展のため、世界経済という大きな波に乗るため、数十年後の日本を担う子どもたちを育てる教育にも一生懸命です。

 

そんなことも承知ですが、僕は一人ひとりの精神的な幸福度をもっともっと上げていきたいなと思っています。

 

多様性に富んだ学校教育。ステキじゃぁないですか。